大東流合気柔術の沿革

武田惣角先生  大東流合気柔術は今から900有余年前の清和天皇の末孫である新羅三郎源義光を始祖として大東の館で修練されたことに ちなみ大東流と称され、代々甲斐源氏武田家に伝承された秘術です。
 天正元年4月12日武田信玄の死後、同2年弥生2日甲斐武田の一族である武田土佐国次が会津に転出、当時会津の国守で あった芦名盛氏に仕え、地頭職として小池に居を構え、時代を経て武田信玄の女武田見性院に育かれ、後大老に昇進した 徳川家康の孫に当る保科正之が会津藩祖になるに至り、甲州流軍制を定め更に殿中匁傷事件等に対処するための護身武芸 として武田家伝来の大東流合気柔術を御式内(御殿術)と定め、会津藩の御止技として歴代藩主が継来し家老、重臣、及び 小姓等に習得せしめていた格式高い秘術であった。
 明治維新後大東流合気柔術の中興の祖といわれた武田惣角先生は、前記の武田国次の末孫である武田惣吉の次男として 万延元年10月10日、その昔、征爽大将軍坂上田村麿呂が建立した構寧寺守護神社跡の御伊勢の宮(武田家屋敷)で生まれ、 9才の時会津戦争を見聞し、父惣吉より武道を学び、更に会津藩士渋谷東馬に小野派一刀流を学び明治4年東京車坂、 直心影流、榊原健吉の内弟子として武芸に励み、更に祖父惣右ェ門の高弟で日光東照宮副宮司であった保科近悳 (会津藩家老、西郷頼母改名)に家伝の大東流合気柔術を学び全国各地を武者修業し、出羽の羽黒、二荒山、越前永平寺、 九州鴉戸明神に参籠祈願し、心身の鍛錬をなした丈5尺1寸、体重15貫の小男乍ら、その武技は神技と云われ当時の武道家 の間に会津の小天狗として恐れられた。
巻物  その後更に各地を武者修業をして歩いている途次、福島県伊達郡にある霊山神社(北畠親房以下3神を祈る)の宮司と なっていた保科近悳と再会し、その際大東流合気柔術の由来を教えられ「すでに剣の時代は去った、会津藩御止技であった 合気柔術の秘法を後世に伝えよ」と訓され、秘奥を授けられ剣豪として知られた武田惣角は、この時より剣道から 大東流合気柔術に転向し指導普及に努めた。
 ときに明治31年5月12日である。又このとき、保科近悳より「しるや人 川の流れを打てばとて 水に後なる物ならなく に」の和歌を贈られた。
記念碑  これより武田惣角は大東流合気の剣、合気の棒術、合気柔術として会津藩御止技として一般に公開されていなかった 大東流合気柔術を、陸海軍、警察署、裁判所、その他、地方の有力な指導者に伝授すべく諸国を遍歴し、他流試合を しても負けることを知らず、これを知る者は皆惣角の許へ入門、大東流の名を天下に轟かしめた。
 武田惣角先生の余り世に知られていないそう話として、明治35年米国より初のプロレスラーが来日、仙台警察署に おいて、2名が惣角と試合をし惣角に完敗し、その門下に入り合気柔術の指導を受け帰米したが、その後このことが、 ルーズベルト大統領の知るところとなり、同大統領から惣角先生に対し、渡米指導方要請を受けた。 そこで惣角の高弟で、当時仙台警察署武道教師をしていた原田信蔵を教授代理として派遣させ、 米国各地で大東流合気柔術を指導せしめた。
 現在プロレスラーの技には大東流合気柔術の技が相当使用されているが、この頃米国で指導を受けたレスラーが、 その道の者に伝授し、今日に伝えられたものと思われるのである。
 北海道には、明治43年、当時秋田県警察部長財部実秀が、北海道警察部長に栄転の際要請により随行来道、 道内各警察署、裁判所等を巡回教授した。
集合写真  明治、大正、昭和の3代に亘り陸海軍将官、警察、裁判所、その他地方の有力指導者等、全国に3万余の門人を有し、 大東流合気柔術を普及指導した。
 門人に堀川幸道、佐川幸義、植芝盛平、久琢磨等各地に多士済々がおり各氏の門下より幾多の優秀な門人が輩出し、 一般に普及され世界的に名声を博している。





(写真左から、堀川泰宗先生、武田惣角先生、幸道先生)