井上祐助最高顧問
井上先生の突然のご逝去の報に接し、残念でなりません。
ご生前のご厚情に深く感謝するとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
先生からいただいたご指導を大東流の稽古に生かし、弛まず切磋琢磨していくことでご恩に報いる覚悟でございます。
・昭和7年(1932年)5月10日生 井上祐治の次男として、紋別郡遠軽町にて出生。
・昭和14年(1939年)武田惣角と出会う。
・昭和21年(1946年)14歳の時より父から大東流合気柔術の指導を受ける。
・昭和26年(1951年)高等学校卒業後、日本通運(株)に入社。
・昭和38年(1963年)4月 幸道会入門。
・昭和47年(1972年)5段位。
・昭和51年(1976年)7段となり、同時に巻物第3巻「大東流秘伝奥儀之事」を授与。
・昭和52年(1977年)10月15日 幸道会の第1号として師範に列せられる。
・昭和55年(1980年)10月29日 幸道会創設者堀川幸道師の死去にともない、幸道会の後継者となる。
・平成16年(2004年)4月 幸道会相談役に就任。
・平成21年(2009年)9月 幸道会最高顧問に就任。
・令和5年(2023年)2月24日没。
大東流は14歳の時、父からはじめて手ほどきを受けた。武田先生から習った技は部外秘であり、息子である私はちょうどよい練習相手だったのだろう。
武田惣角先生の話は父から折に触れて聞いていたので、独立してからも、自分なりに習得してみたいという気持ちはずっと持っていた。
27歳の時、遠軽から転勤で北見市に移り住んだ。幸道会に入門したのは、昭和38年4月だった。
大東流を教えている人がいる、会員募集をしているという話を聞いたので、道場にうかがい、
堀川先生に「井上祐助と言います。入門させてください」と挨拶をすると、堀川先生はちょっと考えた様子で、
「祐ちゃんの子か?」と言われた。「父は井上祐治です」と答えると、あらためて「井上祐治さんの子ですか」と再度確認するように言われた。
父の口からは、堀川先生の名前は一度も聞いたことがなかった。その時も、父の友人だったのか、という程度だった。
入門当時、道場では白帯、黒帯、高段者(袴)を入れて30名ほどが稽古をしていて、堀川先生は札幌方面の各地を巡回指導していたから、
北見市では1ヶ月に2日間来て指導されていた。
1日の稽古は白帯が一手か二手、次に黒帯も一手か二手、次に高段者(袴)も同じように稽古をしていた。きっちりと段階別に技が分かれていて、
上の技を真似すると叱られた。
稽古を続けていたある時から、堀川先生が私にだけ俄然厳しくなった。「そんなことは教えていない」とか、ほかの人達がぜんぜん注意されないのに、
注意されることが多くなった。どうして自分だけが叱られるのかわからず、こんな状態では正直続けられないなと思った。
そんなある日、遠軽町の実家に帰ると、父親から「堀川の幸太郎さんが来て行ったぞ」と言われた。詳しくはわからないが、
おそらく堀川先生がわざわざ父親に会いに遠軽町まで行き、何10年かぶりで再会し「お前さんの息子が私の所で稽古するようになったぞ。
鍛え上げてもいいのか」と言ったのだと思う。父親には大東流を始めたと言っていなかったので、堀川先生に聞かされた父親も驚き、
「厳しく鍛えてください」と頼んだのだと思う。
父親の言葉を聞いて、どうして堀川先生が自分にばかり厳しくするのか、その理由がわかった気がした。
それまでは、小さい頃からの夢であった大東流の技を覚えればいいという考えでいたが、心構えが変わり、
そうすると堀川先生も「こうだぞ」「ああだぞ」と言うようになり、徐々に技を習得できるようになった。
夏の暑い日、稽古が終わり堀川先生を田圃の中道を送っていくと、カエルが沢山「ゲェーゲェー」と鳴いていた。
堀川先生は黙ってじっと立ち止まり動かないでいる。内心早く帰りましょうと思っていた。
『井上さん、これは学校の生徒の声に聞こえるんだよ……。』
堀川先生は、僻地教育に生涯をかけてきた教育者という確固たる信念をもった武術家である。
これからこの先生にすべてをかけて師事していこう、とその時思った。
堀川先生は稽古の時、よく仰っていた。
『大東流は人が考案した武術であるから、誰にでもできるんだ。そこに個人差はあるが、人間として、
どう活用するかである。自分なりに努力することである。』
最近、私が大東流修行の一番の近道と気付いたことは『直心』(じきしん)ということ。
素直な心、これが大切であると再認識した。
武道を求めるなら、自分を磨こうとするなら、純粋で素直な心構えで稽古に励む。それに対し指導者も直心で応えなくてはならない。
これが「切磋琢磨」ということ。
大東流の稽古と社会生活とは繋がりがある。
私の体験を言うと、私の16年間の空港勤務は大東流を習得していて良かったと感じた年月であった。
44歳の時、突然転勤命令があり陸上部門(経理畑)の仕事からまったく畑違いの空港勤務に配属となった。
半年間東京(羽田)での缶詰教育となり、航空法規、気象、整備、英語等勉強の日々だった。
40代半ばからの新規の教育はつらいもので、これほど自分として一心不乱に机に向かったことはなかった。
幸いにも無事に資格試験に合格し、晴れて空港の運航管理の仕事に就くことができた。
今までは経理事務で、人との接触が少ない仕事だったが、空港勤務では不特定多数の人々との出会いがあり、
各人の要求、申し出の対応に苦慮の連続であった。
その時、自然に大東流の応用を行い、相手の気持ち要求をどう読むか、即座の判断でどう対処するか、
これは大東流の稽古と仕事との一体化によるものだった。
朝五時から夜九時までの勤務、幸道会総本部長(当時)としての務め。今振り返るとよく続けてこられたと思う。
ただこれは、堀川幸道先生の教えに導かれてきただけなのかも知れない。
私には父親の縁、地域の縁というものがあった。48歳の時に堀川先生が亡くなり(昭和55年10月30日88歳)、
幸道会を継承することとなり、事の重大さを感じ途方にくれた。
その時堀川先生の縁、血縁、地縁というものに助けられ、武田時宗宗家、佐川幸義先生などの諸先輩方にお伺いすることができ、
親切丁寧に大東流の歴史、惣角師の話などをしてくださり、稽古・指導方法も見させていただき、
非常にありがたい経験・体験をさせてもらった。
ああ我々は大東流を通して堀川先生から人としての道を教えて頂いたんだなぁ、と再確認させていただいた。
明治初期、武田惣角は全国武者修業の折、元会津藩家老西郷頼母(保科近悳)が神官をしていた日光東照宮に立ち寄り、
「時代の変遷とともに剣の道は終わった。大東流をもって世の中を浄化、人づくりをせよ」と諭され、使命感をもって行動を起こした。
政治家・裁判官、軍人、町の名士などを対象に大東流を指導し、自分の家族を犠牲にしてまで全国を駆け巡った。
目が鋭く恐ろしい、お金に執着した、などと風評が伝えられているが、私は武田惣角先生の本当の使命を父から聞かされたことがあった。
「品行方正なる者、心身共に社会の責任ある人間を育成する手段として、大東流を指導している」ということだった。
大東流の技は手段であり、究極の目的は人づくり。人格修練にある。
堀川幸道先生は教育者であったがために惣角先生から特別に指導を受けられた。
私は最近憂いていることがある。大東流の本質を忘れ、合気だ柔術だ、あれは合気ではないと技の事ばかりに拘っているように見える。
大東流は人づくり、人物を育成するために世に出たのであるから、その根本を再認識してほしいと思う。
合気という言葉を先行させると技中心にのめりこんでしまう。合気も柔術も含めて大東流であり、
技術面と精神面の錬磨が大切である。大東流の幸道会として、修行に励んでいただきたい。
堀川先生は相手の力を取り、相手を崩したうえで技につないでいった。相手が自分の力で、自分自身が苦しむという術理である。
こちらから攻めるというより、相手の力を利用する。堀川先生は「これが合気だ」というだけだった。
私は堀川先生の合気技を実際に受けて研究を重ね、「攻め合気」という言葉で表現した。
ただ手を上げたり下げたりすることを合気と言わない。私は言葉にすれば「攻め合気」「落とし合気」という使い方をする。
攻め合気によって相手の身体を崩し、技に繋ぐことができる。
攻め合気の稽古が足りないということは、崩しの研究が足りないということになる。相手の力を吸収して相手に返すことにより、無力化する。
堀川幸道先生の指導理念は、伝統ある日本古来の大東流合気柔術の道は遠く厳しいけれども、根気よく稽古を続け、
技を研究すること。ことに合気の術は、5体のすべてに術があり、相手の力を利用して
、機に応じて、千変万化、千態万様、自由自在に相手を屈伏させる術と言われ、応変即妙の処理に出る総合術であると言われた。
この理念に基づき、武道家として、教育者として、日本人として、人かくあるべきと、身をもって教えられた。
今後の幸道会を益々発展充実させ、恩師堀川幸道先生のご恩に報いるためにも、微力ながら最善を尽くしたいと思う。
(幸道会広報誌「井上最高顧問聞き書き」より)